現在の石州瓦の原点 いわゆる赤瓦 これは釉薬瓦ですが、この赤瓦が石州に誕生し、今日の礎となるのですが、その誕生は、石見焼きという焼き物と深くかかわるものでした。
石見焼きは、瓶など大型の丸モノが特徴で、特に石見焼きの瓶は「はんど」と呼ばれ、寒さに強く、凍てに弾けない強い水瓶として、日本海沿岸を北上、江戸から明治・昭和の長きにかけて大ヒット商品になります。
凍てに強く、水を通さず、割れにくい石見焼きは、ひたすら地元に眠る良質な粘土「都野津層と呼ばれるもの」のおかげでした。石州瓦の地元島根県西部地方は、今から200万年前に堆積してできた良質な陶土が豊富に埋蔵されていたわけです。
一般的に、近世日本の焼き物の源流は、豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役の後に起こったとされ、役の後、朝鮮半島から連れ帰った陶工たちが各地で窯を開き、中でも唐津、高取、萩、薩摩焼などがその代表とされています。
石見地方でも、文禄・慶長の役に従軍した斉藤市郎左衛門が、朝鮮の陶工「李朗子」を連れ帰り、現在の柿木村に唐人窯を開いたことが記録に残っています。
また、同じく「李陶仙」「金陶仁」が現在の浜田市で陶器を作ったという記述もあります。さらに寛暦13年(1765)、江津市で森田某が、周防岩国藩の入江六郎から学んだ唐津技法で、小物の作陶を始めるなど、焼き物造りが本格化していきます。おそらくこれらが、近世以降の石見焼きの源流と思われます。
そして、天明年間(1781頃)後世の石見焼きの特徴である大型の焼き物造りの技術が備前国より伝わったといわれています。