瓦屋根は江戸が栄えた寛永年間(1624〜1643年)、町家に相当多くなったと言われますが、高価なため一部階級での使用に限られていました。
『瓦は高価なもの。贅沢はいけない。』という禁止令が出されたこともあったようです。
ところが、享保5年(1720年)一転して瓦葺きが奨励されるようになります。徳川幕府は、10年年賦の拝借金制度を武士だけでなく、一般庶民にまで運用し瓦葺きを奨励します。
時の将軍吉宗は、瓦葺きの屋根を防火、類焼を防ぐ切り札として考え、江戸の町を初め多くの城下町の防火対策を進めたのです。ちなみに町火消し「いろは48組」が生まれたのも、竜怒水という消防ポンプ、さらには町の要所要所に類焼を防ぐ空き地や樹木地帯を設けたのも吉宗、江戸町奉行大岡越前守に差配させています。
瓦葺きの奨励策、桟瓦の発明による瓦施工費のコストダウンなどによって、瓦葺き工事は増加の一途をたどります。当然のことに、瓦製造業者も増加します。江戸も後期の頃です。
ちなみに、当時、江戸、京、大坂の町家は殆どが瓦葺きになっていますが、京はもっぱら桟瓦葺き、大坂は本葺きと地域性が現れています。
江戸時代も後期になると、いぶし瓦がだるま窯で生産される一方で、登り窯による釉薬瓦の生産が、主に日本海沿岸で始まります。いずれも耐寒性に優れた、赤褐色の瓦という特徴をうたい文句にしていました。
石州瓦もその一つですが、耐寒性の高い釉薬瓦が日本海沿岸に広まるきっかけの一つに石州瓦の存在があったとする説もあります。