城下町、商家町、宿場町、門前町、寺町、職人町、港町、山村農村集落、そして離島の集落・・・。永い時間を掛けて、様々な人々が造り、伝え、今日に継承されてきた日本の街並みがよみがえろうとしています。
室町時代の書院造りが原形とされる現代日本の住まい。近世初期の都市開発城下町を背景に伝えられてきた日本の暮らしの風景。
瓦屋根は、茅葺き、檜皮葺きなどとともに、日本の建築物、日本の街並み、日本の暮らしを形成し、守り、今日に継承してきました。
石州瓦もまた、日本の暮らしの表情の一つ「赤瓦の景観」を、多くの歴史の舞台に刻み今日に伝えてきました。
昭和54年、伝統的建造物群保存地区協議会が発足、日本に残る歴史的建造物や町並みを保存、未来に継承する活動が始まりました。現在加盟している地区は81に上ります。また最近では町並み100選といった企画が様々に生まれています。
日本には、こうした著名な集落や都市景観だけでなく、いまだ無名の、しかし魅力ある固有の暮らし文化を伝える町や建造物がたくさん存在しています。
私たち石州瓦産地では、こうした有名無名の町並み群を、少しでも多く取り上げて、皆様に紹介していきます。私たちにとって、かけがえのない財産だと思うからです。
一概には言えませんが、日本の町並み景観は、おおむね温暖な太平洋側は銀黒系の町並み、寒さ厳しい日本海側は赤系の町並みに分けることができそうです。
むろんそれは釉薬が一般的に使用される近世後半(江戸中期から明治時代)になってからで、それまではいわゆるいぶし瓦の銀黒系の建造物や町並みが多く形成されていました。日本海側でも城下町のお城や武家屋敷、町屋の屋根はいぶし瓦が多いのは、そのためです。
赤瓦、正確には赤褐色系の瓦は、釉薬もしくは塩焼き瓦で、いぶしに比べ凍てに強い瓦として寒い地域に普及しています。
石州瓦はもちろん赤瓦の系譜、その中でも凍ての強さは特筆される品質だったことから、広い地域に普及していき、やがて各地に石州瓦の風景を誕生させていきます。
石州瓦各地への普及経路は二つあります。一つは北前船などの物流に乗って日本海沿線に展開していきます。いま一つは、石州の瓦職人自身の移動です。
石州瓦造りの職人は、各地へ出向き、その地の土を使い、その地で瓦を造ることもありました。もちろん、本場の石州瓦の品質を保持した瓦造りが求められました。彼ら石州瓦職人の中には、やがてその地に土着し、その地で暮らす人もいました。石州瓦は製品だけでなく、瓦造りの知識と技を持った人も移出していたわけです。
例えば岡山県の備中に今でも残る吹屋の町並み。石州の赤瓦の見事な景観を残す町ですが、この石州瓦は現地で造られています。
耐火度の高い粘土を使いこなす技、1300度の焼成温度を可能にする技。当時、石州瓦の生産技術は先端をいくシステムだったのです。