石見銀山の町づくり、すなわち大森の町づくりは初代奉行大久保長安の着想をへて、2代目奉行竹村丹後守源兵衛によって着手される。
竹村丹後守は、城神神社の西隣り、銀山川に臨む場所に大森陣屋を建設、その北西に隣接する勝源寺に東照宮を勧進し、銀山支配の拠点とする。ここから大森の町づくりが始まる。時は寛永年間(1624〜1644年)、銀山最盛期の頃である。
約3kmの細長い道の両側に整備された大森の町は、石見銀山領4万8千石、150ヶ村の中心として発展していく。
寛政12年(1800年)、石見銀山大森の町は未曾有の大火によって消滅する。新しい町づくりが始まる。防火・類焼をふせぐことを目的に建物のほとんどが瓦屋根に再建される。時は近世の中頃、石州瓦はすでに来待釉薬を得て、耐寒性と耐久性にすぐれた瓦として進化しているころである。
今日、大田市大森町には約210世帯、500人くらいの人が住んでいるが、その建物の殆どは、寛政12年(1800年)から数年の間に建設されたものといっていい。
石州瓦は、大森の赤瓦の町並みを200年にわたって守ってきたわけである。