それでは石見銀山大森の町並みをご紹介しよう。
現在に残る石見銀山資料館は、明治35年(1902年)に建てられた旧邇摩郡役所を活用したもので、資料館としての開館は昭和51年(1976年)。明治近代の建造物として残されている。瓦は石州の銀黒瓦。今日の主力釉薬カラーである。
島根県指定文化財。熊谷家は代々の年寄役を務めた旧家。現在の建物は大森大火のあとの文化年間(1804〜1818年)に建設されたものである。
入母屋瓦葺き2階建て、間口9間、奥行き8間の母屋。その背後の両側に建物が張り出している。母屋と蔵との間に門を構え、屋敷内には蔵4棟がある。
島根県史跡指定。高橋家は天明年間(1781〜1789年)銀山町に住みつき、町年寄山組組頭にまで進んだ家柄である。現存する主屋は、安政年間(1858〜1860年)に建設されたもので、切り妻造り、瓦葺きの2階建て。1階は間口6間、奥行き9間、2階は4間に2間半。土間の上に架した梁は太く豪壮な構えを見せる。
外周りの筋格子、台格子にも往時の風格を偲ばせている。
島根県史跡指定。銀山御料内6組6軒の郷宿の一つ。平入母屋瓦葺きで街道に平行した棟をもつ見世部分と、それに接続して後方に延びる住居部分からなる。
この建設物は江戸時代の工法をよく伝えており、採光や換気に独特の工夫がなされている。
島根県史跡指定。銀山御料内6組6軒の郷宿の一つ。慶応4年(1868年)の家相図が残っている。玄関土間周りとそれに続く帳場、表座敷は旧態を残しており、瓦壁、裏入りの外観など天領御料の風格をしのばせるのに十分なものがある。
島根県史跡指定。慶長6年(1601年)銀山役人に召抱えられて以来、今日まで続く旧家である。現存する主屋は家構えから見て江戸時代中期にまで遡ることができるといわれている。主屋は切り妻瓦葺きの平屋建て、間口7.5間、奥行き5間。
入り口から入って裏側の最奥部を上座敷とするが、床は妻床、表側との境は建具で仕切っている。各室とも長押を持ち、天井は高く、大黒柱、梁組などすべてに太く豪快である。
島根県史跡指定。詳細は不明だが、屋敷構え、規模から見て中級武士の遺宅と考えられる。屋根はむろん瓦葺き。間取りは6間、上の間が上手の表座敷に設けられているがこれは鍵座敷形式にいたる過程をしめすものである。
延慶年間(1308〜1311年)、銀山川北側の山並みの中で最も高い要害山(標高414m)の山頂に築かれた銀山攻防の要山吹城。銀山最初の発見者とされる大内弘幸によって築城されたという。室町から戦国時代の約200年にわたって、石見銀山争奪の舞台となった。
関が原の戦い(1600年)以後、その役割を終えて廃城となる。
現在、山吹城の山門と伝えられる史跡が残っているが、桟瓦葺きのもので、おそらくは江戸後期から明治にかけて葺き替えられたものと想像させる。
始まりは定かではないが、初代奉行大久保長安か2代目竹村丹後守の時に建てられたと伝えられている。山頂には徳川家康をはじめ、代々の将軍の位牌を祭る東照宮もある。
屋根は、現在の石州和瓦。銀黒に葺き替えられている。
博多の豪商神谷寿貞が石見銀山発見の際、境内におびただしい銀塊が積まれていたとされる清水寺。寺暦はかなり古い。江戸の初期、銀山師 安原伝兵衛が徳川家康から拝領した「辻ヶ花染めの丁子文胴服(国重要文化財)」が収められている。山門の屋根は現在の石州瓦、銀黒色。近代に入り葺き替えられたものである。
石州赤瓦で葺き上げられた本堂を持つ西性寺。この寺には石見左官の手によって描かれた「鏝絵」がある。鏝絵は、民家や土蔵の漆喰壁に、鏝を使って様々な絵柄を浮き彫り描いたもので、特に石見左官の鏝絵は全国的に有名。
石見地方にはこの鏝絵が数多く見られるが、西性寺経堂の鏝絵は「左官の神様」と呼ばれた松浦栄吉のもので、正面には大きく羽を広げた鳳凰が、残る3面には牡丹や菊の花が見事に描かれている。